◆175・僕はただ君の手を握って、君は黙ったまま頷いて(室町)
徹夜で算盤を弾くか池の中で熟睡するか、あのような睡眠事情でよくあれほど動けるものだ。同級生の留三郎でさえ感心する時がある。だから彼について下級生が賞賛半分驚き半分に囁く噂も仕方ないのかもしれない。――ねえ知ってる?潮江先輩のこと……――この前五徹だったらしいよ――まさかあ!妖怪じゃん――団蔵も見てないでしょ――でも田村先輩が寝た後も一晩中明かりがついていたんだって――云々。用具委員の仕事帰り、下級生長屋の前を通った留三郎の耳に聞こえてきた声に足を止めた。今日は一年は組の面々の話題にされているらしい。
「でも本当、いつ寝てらっしゃるんだろうね」
団蔵の疑問にふっと笑みがこぼれる。きっとその答えを見たら仰天するだろう。久々に自分も確認したい気分になった。
学園の広い校庭の隅に古い用具倉庫がある。使用しないが捨てるも忍びない備品が仕舞われているだけで、周りに何もないから生徒も先生も寄り付かない。ただ一人……いつからかは二人を除いて。
初めて留三郎が倉庫の陰に文次郎を見つけたのは、六年生に進級してすぐの頃だった。四、五年にもなれば自分の好きな鍛錬場所は決まっていて、学園内での自主練はほぼ同じ場所で行っている。その日留三郎がこんな人気ひとけのないところにまで来たのは、卒業した先輩から存在を聞いていたからだった。用具委員が整備することもないけれど、一応確かめておきたい。有事の際に必要かもしれない。委員長になったばかりで張り切っていたこともあり、念のため砥石や工具なんかを箱一杯に持って倉庫へ近づいていった。と、人の気配に気づいた。
(誰だ?)
素早く思考を巡らせる。殺気は放っていないが……最も近い門からも離れているが逆に忍び込みやすいか。用具委員会に関係する先生方は皆いないはず。上級生で残っているのは六いの二人、五年は全員……。用心しながら裏へ回り込む。
「……文次郎」
低木の茂みと小屋の隙間、文次郎が足を投げ出して眠っていた。
午前は座学を行い午後は実技という下級生の授業構成では気付きにくいが、昼下がりの眠気に潮江は案外負けている。実技であれば合間合間のわずかな時間を縫うように仮眠を取り、用事がなければ戸外で舟をこいでいる。まるで野生動物のように。いずれもごく短い間だが、徹夜続きの身体は素直に休息を欲しているのだろう。稀にたいそう長く眠りこけている時もあって、本人が苦にしないから止めやしないが普通に寝て普通に鍛錬すればいいのに、なんて思ったりもする。
「……起きてるか~?」
控えめに声をかける。んん、と唸ってこちらに顔を向けた文次郎に、どきりと胸が高鳴った。
いつからだろう。この男が寝る間も惜しみ真っ黒な隈を作るようになったのは。最初のうちは仙蔵や伊作なんかが心配してやったものだが、いつしかそれは呆れた溜息に変わり、今や文次郎の一部として気にも留められなくなってしまった。
当然のように下瞼に鎮座する窪みにそっと人差し指を滑らせる。気難しく寄せられたままの眉間がぴくりと動いたが、瞼は閉じられたままだった。
本人は元服も済ませた大人だと胸を張っているけれども、文次郎は子供だ。もっともっとと果てなき欲望に無自覚な子供。ストイックな努力家であることは――ストイックとクレイジーの境目がないのは置いといて――認めるけれども、時間を手間をかけさえすれば全て返ってくると信じている、どこまでも高みを目指せばいいと思い込んでいる純粋さが怖くなる時がある。繰り出した拳をするりと避けてそのまま走り去って見失ってしまいそうな時があって、そんな時はしがみつきたくなる。
そっと側に身体を寄せるのが好きだ。留三郎に気付いても数回瞼を瞬かせるだけで、何も言わず再びまどろみ始める文次郎。恋仲になってから――それでも機嫌のよい時だけだが――手をそっと重ねることが許されるようになった。
疲れた演習の後はチャンスだ。すりと手に頬を寄せてくれさえする。お前も寝ろ、と低い声で、いつもの覇気がない柔らかく地面に落ちていくような声で囁く。
「見られちゃ寝られん……どうせ行かねえなら寝てろ……」
そう言う声も尻すぼみに吸い込まれていく。憎まれ口がこの程度なら可愛いものだ。どんなに眠かろうが絶対に気配には気付いて口を開く。でもゆったり上下する胸は弛緩しきっている。あんまりからかうと起き上がって喧嘩になってしまうから、甘やかな雰囲気の止め時ももう分かってる。いいよ寝てろよ俺がいるから。バカタレ、だから寝られんのだろうが……。その言葉が惚気であることにも気付かずに眠りに落ちる文次郎がたまらなく愛しい。
ゆっくりと熟していった思いは誰にも言わずに卒業した。もちろん彼にも。文次郎との思い出はたくさんあるけれど、思い出すのはこの秘密の逢瀬と化した午睡ばかりだ。
夏の長い日も落ちかける頃、留三郎は歩いていた。戦線は数日前に東へ移動しており、残る兵はいない。足音を忍ばせる必要などないのだが、染みついた習慣は変えられない。道端に点々と赤黒く染まった体が打ち捨てられているのを傍目に、ひたすら道を進んだ。
樹木が途切れ、やや開けた場所へ出た。少し学園に似ている。直感的に小屋の陰へ回り込んだ。
見つけたのは穏やかに眠る文次郎だった。眉間に皺もなく、微かに口を開けたその表情は、無茶を繰り返していたあの頃よりあどけないとさえ言える。留三郎は肩下に手を入れるとゆっくりと抱え起こし、膝の上に頭を置いた。十五歳の時分には膝枕など真っ赤になって怒鳴るから出来なかった。固い太ももに文句もなく無言を貫く文次郎は、起きていたら何と言うだろう。
張り付いた前髪を額からそっと払う。これも手つきが嫌らしいのだと振り払われてばかりだった。木漏れ日の降り注ぐ中おとなしくしているのは、とんでもなく眠い時だけ。
「じゃあ今日はすっごく眠たいのな、」
いつもちゃんと寝てねえからだよ。俺がいるから安心して寝てろよ。……いや恋人の声聞いたら起きろよ。つれねえなあ。
「……ほんと、いつでもおまえは」
甘い言葉を並べていくも、声は次第に震えていく。いっつも馬鹿みたいに徹夜していたくせに起きねえのかよ。頼んでも寝なかったくせに。伊作の苦労は何だったんだよ。仙蔵だって口やかましく注意していたのに。俺だって無茶はするなと言ったのに。ぽた、と一つ雫が落ちたら、どんどん止まらなくなった。文次郎の乾いた血にも落ちていった。
文次郎のほとんど綺麗に見える身体は、ぐっしょりと血に濡れた跡があった。左腕にきつく巻かれた包帯が真っ赤に染まり、そこから血痕が道に続いている。傷跡自体は小さく掠めたと強がってもおかしくない程度だった。毒……血が止まらない毒だろうか。ゆっくりと体力を奪われながらここへ辿り着いたのだろう。何を思ってここまで来たのか、それは誰にも分からない。文次郎に似た人影を戦場で見たと、それだけを頼りに留三郎は歩いてきたのだ。
文次郎はいつまでも動かないままだった。留三郎が身じろぐたび、頷くように首が振れた。
※後書きという名の言い訳※
暗めにお題を活用したくて書いたメモ。
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