ちょもん。年上長次×大学生文次郎の夏休みの不思議な一幕、を目指した残骸。
大学生活初の夏季休暇は順調な始まりだった。テストは全てクリアしたし、サークル活動に問題なし。家庭教師のバイトはしばらく出来ないと伝えてある。友人たちの誘いは断って、九月なら空くとあちこちに連絡済み。この言動は潮江文次郎を知るすべての人間を驚愕させた。
なんだってそんなことを?バイト5つ掛け持ちしても死にそうにないおまえが?何もしないで寝てるだけ?死んだように生きる実験?親しい同級生は口々に(たいへん失礼な)言葉を投げかけたが、文次郎の負けず嫌いがこの休暇の過ごし方を決めさせたのだ。
潮江の友人も一緒にと、軽い気持ちで取った通年受講の民俗学講義がなかなか曲者で、休みの半分を使って思いきり打ち込むつもりなのである。
そこへ田舎の祖父母から会いに来ないかと電話があって、二つ返事で了承してあった。すでに必要な文献もリサーチ結果もあるが卑近な例はあまり取れていない。フィールドワークの課題に役立つなら好都合だった。
休暇が始まるとすぐ祖父母宅へ向かった。大きくなったねえというお決まりの文句をかわし、ゆっくりしていきなという言葉通りに一週間いるからと伝えた。それから大事な目的も。フィールドワークをしたいんだが、近所の人んとこ行っていいかな。祖父母はきょとんとして顔を見合わせた。町内会旅行で全員いないけど、一週間。
田舎でやることは限られている。畑仕事を手伝うほかはすることもなく、祖母のおやつをお食べ攻撃もすべて受け止め、祖父の一局どうかねと三回は続く将棋の相手もして、三日目には出来のよい孫としているのも飽きがきてしまった。当てが外れてこんなにやる気が起きないとは。いかんいかん…そう思いながらもごろんと縁側に寝転がる。庭の奥に広がる景色も午後の日差しのごとく穏やかだ。
「…裏山か」
村の先、青々とした小山が目に眩しい。ここから30分もあれば行ける山だ。昔は虫取りや川遊びをしたが、奥へ入ったことはない。お化けが出る、鬼が住む、神隠しに遭う、そんなありきたりな脅し文句で止められていたのだ。気にしていなかったが、由緒深く古くから信仰を集めていたと聞いたことがある。
「山の調査も役立つかもしれんな」
決めた、あそこくらい研究結果に入れてやろう。文次郎は鞄を手に取り立ち上がった。
裏山の標高はそれほど高くない。入った時点で15時を回っていたが、下山時も十分明るいだろう。体力にも自信がある。そう踏んでいた文次郎は後悔することになった。最初こそ小さな城跡や道祖神を見つけては書き留めていったのだが、そのうち鬱蒼とした森に迷い込んでしまったのだ。進んでも進んでも生い茂る緑ばかり、目印をつけたはずの木は二度と見つからない。どこも見覚えがある気がする。いや逆にどこも知らない気もする。すでに空はうっすら夜の気配が近寄り、焦る気持ちはいよいよ増していく。と、そこへ小さな水音が聞こえた。「遭難時には川を辿る…」昔聞いた知識を思い出す。下山出来ずとも最悪でも人が来る道へ出られる。文次郎は慎重に歩き出した。
そこから幾分もなかっただろう。苦労したのが嘘のようにあっさり抜けた木立から、大きな屋敷が見えた。遠目にも目立つ西洋風の建築で、なぜ気付かなかったのか不思議なくらいだ。川のせせらぎは近いがまだ見えない。あそこに助けを求めよう。
館へは分かりやすかった。細い山道を辿っていくと途中から飛び石のような小道となり、地面が芝生に変わった。手入れを怠っているのか落ち葉の積もった木々に埋もれているが、明らかに人の手で作られた庭だ。まるで荊姫の挑戦者を刈り取るよう。かき分けつつ進み、ようやっと玄関へ辿り着いた。
深緑の大きな扉は頑丈な木製で、錆びた真鍮の取手が付いている。インターホンはもちろん古風なノックも付いていないようだ。
「すみません」
声を張り上げるが虚しく響くだけである。
「すみません!」
もう少し大きく、今度は扉を叩いてみた。無音。
「すみませーん、誰かいませんか?」
やや声を荒げて扉をドンドンと叩く。静寂。
ここまで来て人がいない!文次郎の疲労は限界だった。予想外の遭難、夏の暑さ、ここ数日の倦怠感、期待を裏切られた落胆。だから普段ならしない行動をしてしまったのだろう。思いっきり拳を振り上げると扉に一撃を叩き込んだ。
「出てきてくれって言ってるだろ!」
扉に穴が開くのと、枠から外れるのと、中からそっと人影が現れたのは同時だった。
「あ」
「…どちら様で」
静かに問うた男の頬には大きな傷痕があった。まずい。ヤバい人の家だったのかもしれない。ヤバい人じゃなくてもヤバい。男は冷めた目で取手上に拳大に開いた穴を眺め、すぐ文次郎に視線を戻した。
「あっ…その、まさか壊れるとは思っていなくて…人がいるとは…」
これじゃ悪戯がしたかったガキじゃねえか!違う違う…!焦った文次郎がしどろもどろに説明するのを男は黙って見下ろしていたが、やがてぼそりと呟いた。
「入りなさい」
そのまま扉を引いて体をずらした。歪んだ戸口にストッパーを挟み込むと中へ戻っていく。振り返らずに歩く男をぽかんと文次郎は眺めていたが、慌てて後を追いかけた。
叱られるかと思ったが男は無言のまま、玄関からまっすぐに廊下を進んでいく。外観も立派だったが思った以上に広い館らしい。好奇心が疼くが、現状自分は知らない人の戸口をワンパン破壊した不審者である。神妙な顔を崩さぬよう着いていくと、男は黒い扉の前で立ち止まった。
紅茶でも淹れるから座っていてくれ、と小さな声で示された先はバーカウンターと書斎を合わせさらに応接間の機能をもたせたような部屋で、ソファやら多種多様な椅子やらが乱雑に置かれていた。戸惑いながらも最も簡素な作りな一人掛けソファを選び、文次郎は部屋を見渡した。
やけにふかふかな座面に埋まりながら、文次郎はちらりと男を見やった。滑るように隣接した台所へ入っていった男は、戸棚の最上段から砂糖壺を取り出している。玄関先でもかなりの長身だと思ったが、あそこまで手が届くなら自分とは頭ひとつ分…いやもっと離れているかもしれない。こちらが見ていることに気付いたのか、男が先ほどよりは聞こえる声で尋ねた。
「ミルクは入れるな」
「…はい」
「砂糖は3つでよいか」
「あ…はい」
動揺が声に出てしまった。顔に似合わず甘党だとからかわれることが多いから。文次郎の胸中を読んだように男は続けた。
「私も3つが好きだ」
どうやら同類の人間らしい。謎は解けたがちょっと…いやかなり不本意である。カップを置いて正面に座った男はどう見ても自分より10か15は年上で、人間と会うくらいなら植物と会話する方を選ぶような厭世的な雰囲気を全身にまとっていた。
「…ティーバックで悪いが」
カップに手を添えたままぼんやりしているのを不服と捉えたか男がぼそりと呟き、文次郎は慌ててカップに口を付けた。ふいの訪問者──どころか自宅破壊者──をもてなしてくれている相手に失礼なことを考えてしまった。熱い紅茶と格闘している間に相手も自分を観察していたらしい。男は文次郎が手にしているノートの文字をちらりと見たようだった。
「大学生か」
「はい」
「なぜここへ来た」
「夏休みの課題があって山登りしていたんです。そうしたら迷って…」
「そうか」
「あの、ふざけてたわけではなくて。チャイムを探していたら開いてしまって…すみません」
「気にしていない」
訪れる無言。ぽつぽつと呟くように話す男だ。怒りを堪えての平静さとは感じられない。事務的に話すのもどうかと気を遣ってくれている?それにしてはおかしな扱いだ。いやでも興味がないのを無理に会話しようとしているのだろうか…ティーバックと言っていたが香りも味も抜群のお茶だ、こんな物をわざわざ出してくれるほどなのに…。文次郎が返す言葉に対し、驚きも疑念も表さない。まるですべてはあるようにある、と分かっているようだ。
「だいぶ古いドアだった。いずれ壊れたから気にするな。おまえが壊さなければ私がやっていた」
男が今までで一番長く喋った。
「弁償もしなくていい。大学生なら金もないだろう。本当に気にするな」
「でも俺が壊したのは事実ですから…分割払いで払わせてもらえませんか。絶対全額お支払いしますから…」
ほっとしたものの見ず知らずの他人に甘えられない。文次郎の提案に男はやや眉を寄せた。
「…私が被害者でおまえが加害者。その被害者がいいと言っている。払わないでくれ」
「でも…」
「私の流儀に反することだと言えば納得してくれるか?」
奇妙なことを言う。しかし文次郎もまともな人間として譲れないものはあるのだ。いやしかし、と議論が平行線に陥ったところで男がぽんと手を打った。
「…では今からいうお願いを聞いてくれ。それでドアの話はなしだ」
お願いとまで言われてはこちらが引き下がるしかない。渋々文次郎は頷いた。男は順番に指を3つ立てた。
「一、今夜はここへ泊まっていくこと…もう出歩くには遅い。二、誰にも今日の話を言わないこと。三、なぜそうお願いするか質問しないこと」
そう言うと男は立ち上がり、部屋の隅から毛布とクッションを引っ張り出してよこした。
「私は2階にいる。何かあればそこのベルを鳴らしてくれ。手洗い場はここを出て左の突き当たり。飲み物は隣から自由に。明かりはこれで。すまないがベッドはないからソファで寝てくれ」
今日一の長台詞を唱えると出口へ向かう。ぽかんと口を開けている文次郎を振り返り、男は最後に付け加えた。
「私の名は長次だ。他は何も聞かなくていい」