室町六年伊文のスーパーショートストーリー。口紅をだしに惚気ているだけのヤマなしオチなし意味なしです。なのに途中で飽きてる。
あるうららかな春の日のことだった。連日の春雨から解放された生徒たちは喜んで外へ出かけ、学園はいつもの喧騒を潜めていた。そんな寮の静寂を破る影がひとつ、六年は組とろ組の前を走り抜けていく。薄桃色のその影は、一番端の部屋まで辿り着くと飛び込むような勢いで戸を開いた。
「おはようい組!……あ、仙蔵いないのか」
おざなりな挨拶に、部屋の左奥から不機嫌そうな黒髪が顔を上げた。
「何だ騒々しい……」
文次郎が濃い隈のある目でギロリと伊作を見やる。下級生であれば踵を返して逃げ出す眼光であろうが、六年間一緒の人間にはちっとも怖くない。伊作は余計な説教が挟まれる前に急いで説明を加える。
「いやすまない。ちょっと急ぎのおつかいでさ、女装しなきゃいけないのに紅が見当たらないんだよ」
そう言いながら伊作は珍しいこともあると驚いていた。文次郎は机に座ってはいるものの考え事でもしてたようで、傍らに本も積まれず広げられた紙は真っ白のまま、格好も私服に着替えてはいるがどこへ行くでもない様子である。きちんと結われた髪といい畳まれた風呂敷といい外出できる準備は整えてはいて、たしか食満もろ組も不在のはずだが、一人出かける予定なのだろうか。こんないい天気にギンギンに忍者していないとは、明日もまた雨かもしれない。
「紅くらいなくてもとは思うんだが、長丁場になりそうだから持っていきたくて。頼むよ」
「それで仙蔵か……あいにくあいつは街へ行ってるぞ」
「文次郎が貸してよ」
「朝から仕方ない奴だ」
文句を言いながらも文次郎はすぐ立ち上がった。引き出しから小さな器を手渡す。
「そもそも紅くらい常に持っておけ」
「持ってるさ!ただ、貸したのがたまたま戻っていないだけで」
「不運の口紅を借りるとは奇特な御仁もおわすことで」
文次郎は何かを思い出したようにくつくつと笑った。
「ちょっと!あれは偶然食われてただけだよ。果物の香が原因だって。似たもの使ってた奴も齧られていたし」
「他人の倍は齧られてたのもまあ偶然だろうな。言われてみればたしかに良い香りがしたが、高級品か?」
「ん〜仙蔵と同じくらいかな?安売り品じゃなかったね」
「悪かったな。俺のは安物で」
文次郎は唇を尖らせたが、器の模様をつついて見せた。
「でも幸運の意匠だという売り文句だったぞ。いくら高級品でも不運を呼び込みたくないからな」
「しまいにゃ不幸になるんじゃねえか」
「ありがと。これ借りてくよ」
「俺のまで無くすなよ不運──」
魔王、と文次郎が続けようとした言葉は声にならなかった。素早く文次郎へ身を寄せた伊作が唇を唇でふさいだからである。あ、と驚いた隙に素早く滑り込んだ舌が。何度も角度を変えて口付ける。
「僕は不運じゃないし、ましてや不幸じゃないけどね」
やっと離れた伊作が。塗った紅はすっかり落ちてしまった。反対に文次郎は
「文次郎とキス出来るなら不運大魔王の名も甘んじて受け入れるけど」
「ほら幸運をちょっと分けてよ」
「……それがしたいだけだろ」
まだ顔を赤らめながらも、文次郎は控えめに伊作に口付けた。
「というか急ぎの用じゃなかったのか?」
「あっ!?」
まずい大遅刻だと。甘味処へ行こうと誘うつもりだったが、この分では難しそうだ。どう誘ったものか云々悩んでいた時間が馬鹿らしい。大変な勢いで任務を完遂させた伊作が戻ってきた頃、文次郎は裏裏山で鍛錬にいそしんでいたのだった。